経を唱えて正しさを得る
最近朝通勤時、お経を唱えている。
神頼みでもなんでもないけれども、心を落ち着かせ、集中させ、自分を良い方向にもっていくため。
幼い頃から母の関係でとある宗教団体に入っており、お経をあげてきた。しかしここ数年はささやかな反抗であげてない。。
なんだろう、その教えに関して、根本的な考え方は間違っていないと思っている。でもなんだかんだで中の人に対して反発しているのだと思う。
言ってる割にはその人自身はできてない、など、突っ込みどころが多く、言うことも一貫しているようでしていない。それは本当に仏教の教えなのか、団体のえらい人がそういう解釈をしただけで、当のブッダはそんなこと言ってなかったんじゃないの、とか。
私はそんな教えがなくても、彼らよりも崇高な魂を持つことができる、と考えたり。
まあ色々、自分も痛いなあと思いつつ。
結局は自分が素直ではないだけ。人に反発するくらい、自分は問題を抱えているのだ。
どんな人だろうが、正しいことを言っているのであればそれを認め、違うのであれば私はこう生きようと思えばいいだけの話なのだ。
いちいちこの人は云々と思い煩う必要などない。この宗教は良いだの悪いだのと考える必要もない。自分の魂に響くことであれば、きっとそれは自分にとっては正しい。
世の中の正しさの基準は曖昧だ。
自分にとってはこれは正しくても、他人にとってはそうではないこともある。
しかし、私が大切にしていきたい基準は、人間としての正しさだ。そして、私はそれをブッダの教えに見出した。
自分の卑しさを目にした時、なんとも言えない嫌な気持ちになる。しかしそれを見つけたお陰で、ひとつ自分は変われる。その気付きによって、良い方向へ自分自身を導くことができる。
少し前に心が詰まりそうな時、自転車に乗りながらお経をつぶやいてみた。(この言い方はおかしい?)
するとお経には自分を落ち着かせてくれる作用があることに気付いた。あまり褒められた話じゃないが。(反発してお経あげてこなかったくせに!)
落ち着く=平常心を保つと、良い考えも浮かぶし、無駄な悲観に浸ることもない。あくまで現実的に物事を考えることができ、そして行動することができる。
お経はありがたいもので、こんな言い方をするとバチが当たるかもしれないが、自分を良い方向に持っていくためのツールの一つとも考えられる。